■沿革■
寺伝によると当寺は永正元年(1504)杉山主水の開創とある。 家紋菊水が当寺の寺紋に使われていることからも、当時は杉山家の持仏堂であったと考へられる。 臨済禅の大徳、悟渓宗頓八哲の一人で、丹羽郡山那に生れ悟渓の甥に当る獨秀乾才 (法智普光禅師)が、長良崇福寺から当寺に招かれ、開山となり、永正元年から同五年まで在住、ついで善師野福昌寺に移っている。 当時、高屋庵と称された永正寺はこの時から臨済宗妙心寺派に属した。 二世文渕玄珠描く開山画像に崇福寺住持宗寿師が画賛を寄せた一幅が寺宝として伝えられていたと記録にあるが、 文化二年と天保四年二度の火災で多くの什器と共に烏有に帰した。当寺過去帳から寺史を略記する。
◎高屋庵時代
一、永正元年杉山主水高屋庵開基、家紋菊水一、獨秀乾才永正年間高屋庵開山、永正十三年八月七日遷化。一、二代文渕玄珠 一、三代大方鑑公 一、四代方外玄朔元和元年五月六日遷化。一、五代元庵辰公寛永十七年七月十九日遷化、寛永五年、寄木村天道勘七 釈迦如来木仏を寄進。一、六代無根因公元禄十三年六月十五日遷化。
◎高屋山永正寺時代
一、七代万外智億元禄十六年天道祥雲院より観世音像を寄進、享保五年、普賢菩薩像寄進す。享保十二年、高屋山永正寺の山号寺号をうく。元文元年七月十四日遷化。一、八代鉄翁祖嶺延享二年六月十三日遷化。一、九代宝山全鏡天明二年遷化。一、十代鉄道智禅文化二年七月七日遷化、自火により全山焼失す。
◎笹野妙光寺法系時代
一、一世一山祖栄 一、二世寛叟玄理文政二年四月十九日遷化、葉栗郡笹野妙光寺法地となる。一、三世全応祖提文政六年六月廿一日遷化。一、四世歎翁文喜文久三年六月十日遷化、天保四年、総門を除き全山烏有に帰す。本尊、釈迦如来、京で新造、檀徒長右衛門、京より背負い来る。一、五世金嶺義剛明治廿六年八月三日遷化、明治廿四年、濃尾地震で一山倒潰。一、六世倍禅慧定明治廿六年当寺住持となり本堂、庫裡再建。昭和十八年四月廿三日遷化、大正五年滝源七 鐘楼一寄進。滝常太郎 宝蔵寄進。一、七世月江真澄昭和七年住持となる。古田吉三郎 茶所一寄進。一、八世水谷大定昭和六十三年三月住持となる。
寄木村天道社内にあった不易山大道寺は現在八事に移り天道山高照寺と改めたが、この寺から三体の本尊仏が寄進され、 高屋山永正寺の寺格が許されており、文政の妙光寺法地入りと共に当寺成立の基盤を成したと云える。 月江代、本堂、庫裡を始め諸堂を修復、寺苑の整備につとめ、寺影漸く改まる。