更新日:2011/04/19
前回からの続きです。
私たちは、ふと気がつくと、
( 注射を怖がる子どものように )
自分の思考の中の世界、
「 自らが作り上げた仮想世界、バーチャルな世界 」に生きているのです。
もっとお金持ちの家に生まれればよかった。
もっと、カッコ良ければよかった。
もう年をとりたくない。
私は、もっと能力があるはずだ。
・・・・。
現実とは、違うことを 常に!? 思い続けているのです。
また、
過去の失恋、大きな失敗など
「 あの時、なぜ私はああしなかったんだろう 」
と、何度も後悔したりします。
そして
未来への不安
「 果たして、私は幸せになれるのだろうか? 」
「 この、発表。うまくいくだろうか? 」
など、
あるいは、
「 あの人、私のことどう思っているのだろう? 」
「 ひょっとしたら、何か気にさわることをしたかな? 」
などなどなど、
過去、未来、そして現在、
ありとあらゆる自らつくりだしたバーチャルな世界に、今、浸っているのです。
しかし、「 今
この現実 」とは
どんなに願っても、思っても
過去について起こったことは変わりません。
これから起こる未来について、誰もわかりません。
そして
周りの人の思惑も、今この瞬間、わかりません。
この ただある現実をどう受け止めて、どのように解釈するかは、
( 注射の恐怖、痛さと同じように )
まさに 私たち次第 なのです。
そして、実は
その自らつくりだした「 バーチャルな仮想世界 」が「 現実世界 」と
離れれば離れてしまうほど、
現実を何とか「バーチャルな世界」に近づけようと躍起になればなるほど、
私たちは、とてつもなく苦しくなってしまうのです。
仏教は
そんな、苦しむ私たちに優しく語りかけるのです。
「 現実のあなた、そのままでいいんだよ。 」
「 現実は、もともと思い通りにならないものだよ。 」
「 いや、世の中というのは、そもそも 現実のみ なんだよ。 」
仏教とは、
現実を何とかしようと躍起になるのではなく、
私たちの方が、現実を理解し近づいていこうとするものなんです。
そして、実は
現実と一つになりきってしまったような境地こそが、
仏教が目指す、「 悟り 」( 苦しみのない境地だと言われています )なのです。
<続く>