更新日:2012/06/14
『 中外日報 』という
仏教などを中心とする宗教の業界紙に、
「 お寺のイメージをダイナミックに変革 」という表題で私が投稿した文章を、掲載していただきました。
⇒PDFはこちらから
これは、
普通の檀家寺そして仏教に対して、今あるネガティブイメージをダイナミックに変換をしていこうとする
「 寺おこしの会 」を多くの寺院に呼びかけようとする内容のものです。
もしよろしければ、
⇒PDFファイル
あるいは、
投稿原文を下に載せますので、
ご興味のある方は、読んでみてください。
ブログとしては、
かなり長文になってしまいますが申し訳ありません。
『 お寺のネガティブイメージのダイナミックな変革を! 』
お坊さんから連想する「死」のイメージは、世の中に非常に根強いものがあります。
お坊さんが黒衣姿で病院に知人を見舞うものなら、ギョッとする周りの視線と固まる空気にすぐに追い出されかねません。お参りのついでに用事があって、お宅を訪ね入っていく姿を見た近所の人が連想するのは「 ○○さんの家のどなたか、亡くなったのかしら?」。
お寺の近所や日頃馴染みのあるところでお坊さんを見かけるのは平気でも、予想外、想定外のところでお坊さんに出くわすその刹那、「 怖い 」「 死にたくない 」「 お迎えが来た 」。まるで死神を見るような視線が突き刺さります。街なかでふと霊柩車を見かけて急いで「 親指の爪を隠さなきゃ! 」。まさにお坊さんのイメージの一面は「 歩く霊柩車!? 」でしょうか。それほど縁起が悪いお坊さん。できれば関わりたくありません。
「 私の家には、仏壇がまだ無いから、お寺さまは関係ないでよう。 」自分自身や身近な人が健康で元気なうちは、できるだけ死や病気などネガティブなものは考えたくない、関わりたくない。差し迫ったことがあって初めて人は、仕方なくなんとなく、お坊さんお寺さんとのお付き合いを始めるのです。
もちろん、先祖代々続く本家筋の檀家さんなどにとっては、小さなころからお寺とお付き合いすることは当たり前、自分たちのお寺を支えるために物心ともに協力を惜しまず、とても身近な存在としてお寺があるからこそ、多くの寺院がこれまで発展、存続できてきたのです。それは間違いありませんが、
けれども他方でやはり、お寺やお坊さんに対して「 縁起が悪い 」「 できれば(一生)関わりたくない 」と思っている人たちは数多く根強く社会風土として厳然と!?存在しているのでしょうし、このことがお寺を「 葬式仏教 」「 葬儀法要仏教 」などと揶揄される要因の一つともなっているのだと思います。
「 お寺は生きているときはあまり関係なく、死んでからお世話になるところ。 」「 死後の世界とこの世を繋ぎ、その中間に存在するのがお寺 」など世間の一般的!?な意識について、僧職である私には注文をつけたくなるものなのですが、皆さんはいかがでしょうか? お寺はもっと「 生きている私たちに身近な存在 」としてあるものであり、仏教は「 生きている私たちにとっての普遍的な心の拠りどころ 」として誰に対しても存在して欲しいという願いがあるのです。
例えばキリスト教は、葬儀というよりも、結婚式、洗礼、日曜礼拝など、人が生まれ成長していく過程のすべてに、すべての人に関わっていく形態であって、まさに生きていく上での拠りどころであり、聖なるものであり、決してイコール死を連想させるネガティブイメージのものではありません。
私たちの仏教そしてお寺は、本来、そのような姿を目指していかなければならないのではないでしょうか?
死生観や葬儀に対する考え方が大きく変わっていこうとしている今こそ、私たちはお寺に対するイメージを本質的に変容させる取り組みが求められているのだと思います。そして、今後のお寺の行く末を左右する大きな課題なのではないでしょうか。
仏前結婚式の普及とその前提となる婚活支援。子どもが生まれたらお寺詣り。成人の際に2文字の生前戒名をこれまでの20年間とこれからの希望を込めて。コンサートやイベントなど。うつ病予防として仏教的考え方を元にした低ストレス社会の実現。「 癒しの日 」としての4月8日の国民的行事化などなど。このような取り組みの全国規模化を。
まさに「 生きている私たちにとっての身近なお寺 、心の拠りどころ 」を目指してのお寺改革。ダイナミックな意識の変革。より多くの寺院が協力して工夫しながら取り組んでいくことができれば・・・。お寺の持っている力、眠っている能力を見つめ直し、もう一度掘り起こしていくいわば「 寺おこし 」。一緒に連携、協力して活動を始めてみようかという方、同じような思いの方はいらっしゃいませんでしょうか?
永正寺 副住職 中村建岳(オリジナル原稿)